バスケットボールをする選手としてプレーする者なら、一度は聞いたことがある伝説が「NBAで1試合100点決めた選手がいた」ということでしょう。その伝説の男こそ、「ウィルト・チェンバレン」です。1試合100点以外にも数々のNBA記録を未だに保持している伝説の選手です。
しかし、1960-70年代あたりで活躍していた選手であるため、現在のバスケファンのほとんどは知らないことでしょう。
そこで今回は、ウィルト・チェンバレンの伝説や記録、生涯などをまとめてお伝えしていきます。
ウィルト・チェンバレンとは?
プロフィール
名 前:ウィルトン・ノーマン・チェンバレン(Wilton Norman Chamberlain)
身 長:216cm
ポジション :C
誕 生 日 :1936年8月21日
出 身 地 :アメリカ合衆国ペンシルベニア州
所属チーム :ハーレム・グローブトロッターズ(1958-59)、フィラデルフィア・ウォリアーズ(1959-62)、サンフランシスコ・ウォリアーズ(1963-64)、フィラデルフィア・76ers(1964-68)、ロサンゼルス・レイカーズ(1968-73)
NBAドラフト:地域指名制度(1959)
記録やスタッツ
受賞歴
NBAチャンピオン×2(1967,1972)
NBAファイナルMVP(1972)
シーズンMVP×4(1960, 1966~68)
新人王(1960)
オールNBA1stチーム×7(1960~62, 1964,1966~68)
オールNBA2ndチーム×3(1963, 1965, 1972)
NBAオールディフェンシブ1stチーム×2 (1972, 1973)
得点王×7 (1960~66)
リバウンド王×11 (1960~63, 1966~69, 1971~73)
アシスト王(1968)
FG%1位 × 9 (1961, 1963, 1965~69, 1972, 1973)
バスケットボール殿堂(1978)
NBA35周年オールタイムチーム
NBA50周年記念オールタイムチーム
永久欠番:13番 (ゴールデンステート・ウォリアーズ、フィラデルフィア・76ers、ロサンゼルス・レイカーズ、ハーレム・グローブトロッターズ)
NBA記録
通算1試合平均リバウンド 22.9リバウンド (歴代1位)
通算リバウンド数 23,924リバウンド(歴代1位)
通算1試合平均出場時間 45.8分(歴代1位)
得点王連続獲得回数 7年(1位タイ)
1シーズン平均得点 50.4点(歴代1位)
1シーズン通算得点 4,029点(歴代1位、史上唯一の4000点超え)
1シーズン通算1試合平均出場時間 48.5分(歴代1位、史上唯一のレギュレーション時間超え)
1シーズンでの50得点達成試合数 45回(歴代1位)
1シーズンでの40得点達成試合数 63回(歴代1位)
1シーズンでの通算出場時間 3,882分(歴代1位)
1シーズン通算フル出場試合数 79試合(歴代1位)
1シーズン通算FG% 72.7%(歴代1位)
1シーズン平均1試合リバウンド数 27.2リバウンド(歴代1位)
1シーズン通算リバウンド数 2,149リバウンド(歴代1位)
FG連続成功数 35本(歴代1位)
連続1試合フル出場回数 47試合(歴代1位)
史上初めてのダブル・トリプル・ダブル達成
史上唯一クアドルプル・ダブル・ダブル達成 計5回
史上唯一リバウンド王、アシスト王の二冠達成
史上唯一シーズン通算2000リバウンドを2度達成
1試合最多得点 100点(歴代1位)
1試合最多リバウンド 55リバウンド(歴代1位)
プレーオフ最多リバウンド 41リバウンド(歴代1位)
ルーキーシーズン平均得点、通算得点、1試合最多得点、平均リバウンド、1試合最多リバウンド 歴代1位
幼少期からバスケットボール選手へ
生い立ちとバスケットボールとの出会い
ウィルト・チェンバレンは、11人兄弟の11番目として誕生。小さな頃に肺炎で死にかけたり、学校を1年間休んだりするなど、病弱であり、傷つきやすく内気な少年でした。時代背景としては黒人が相当きつい差別を受ける時代に育ったのですが、実家が中流家庭であり、差別や生きづらさとはあまり縁のない環境で成長したと言われています。
小さい頃からバスケットボールをしていたのかというと、そういうわけではなく、幼少期にはバスケットボールは「弱虫がするゲーム」であるという認識をしており、陸上競技に熱中していました。小学生の段階で類まれな身体能力を発揮し、陸上競技でも相当な実績をあげていましたが、10歳の頃に183cmまで身長が伸び、その身長を最大限活かしていくということで、12歳からバスケットボールを本格的に始めることになります。
学生バスケのスター誕生
高校入学時にすでに211cmまで身長が伸びており、バスケを始めて数年しか経っていないチェンバレンでしたが、圧倒的な高さに加え、類稀なる身体能力も合わさったため、高校入学時から彼を止められる選手はいませんでした。
高校通算で平均37.4点を記録し、2年目のシーズンには高校のチーム記録となる1試合71得点を記録。そして次のシーズンには3試合連続でチーム記録を超える74点,78点,90点を記録するなど、異常なほどの才能を発揮し始めたのです。
また、この高校時代に当時のNCAAチャンピオンチームのスター選手B.H.ボーンと1on1で対戦する機会があり、チェンバレンが圧勝。この敗北に落胆したB.H.ボーンがバスケの道を諦めるという事態も発生しています。
大学バスケ界もチェンバレンを見逃すことは全くできず、200以上のチームから勧誘があったとされていますが、チェンバレンは1on1で破ったB.H.ボーンが在籍していたカンザス大学への進学を決定することになります。
大学最強選手の誕生
大学入学のタイミングですでに大学バスケ界最強であった、チェンバレンは、カンザス大学のチーム内の上級生チーム対ルーキーチームのバトルに参加し、52得点29リバウンド4ブロックを記録して上級生チームを破ったと記録されています。
当時のNCAAでは1年生が公式戦に出場することができなかったため、デビューは2年目になりますが、デビュー戦では52得点31リバウンドという化物じみたスタッツを残して勝利しています。2年目のシーズンはNCAAトーナメント決勝まで勝ち進みますが、決勝で惜敗。3年目のシーズンも圧倒的な力を誇っていましたが、敵チーム全てが徹底したチェンバレン対策を行ったことと、病気によって数試合欠場したことによってチームはNCAAトーナメント出場を逃してしまいました。
しかし、その圧倒的な力によって、2シーズン連続のオールアメリカ1stチームに選出され、大学No.1選手であることを証明し、カレッジバスケへの情熱を失ってしまって4年生になる前に大学を中退しています。
ちなみに、陸上競技も大学では続けており、100ヤード(約92m)走で10.9秒、走高跳びではカンファレンスで3年連続で優勝するなど、抜群の身体能力の証明も続けていました。
※ちなみに当時の100m走の世界記録が10.2秒
伝説のプロバスケットボール選手
異例の契約金
当時のNBAはアーリーエントリーを認めておらず、大学でのプレーをやり切ったわけではないチェンバレンは、直接NBAに入ることはできませんでした。そこでチェンバレンは、興行チームであるハーレム・グローブトロッターズと5万ドルという破格値で契約。(当時のNBA最高額の年俸は2.7万ドル)
ソ連ツアーのメンバーともなっていたため、1年しかプレーしていないにもかかわらず、後に彼のつけていた13番は永久欠番となっています。
NBA直前の伝説
ハーレム・グローブトロッターズにてプレイした後に、ドラフトにエントリーしてフィラデルフィア・ウォリアーズに指名を受けてNBA入り。
地域指名制度というドラフトは、その地域の「大学」に所属する選手を指名する制度として誕生しましたが、ウォリアーズのオーナーがどうしてもチェンバレンを獲得したかったことから、出身地がフィラデルフィアであることを理由に強引に指名し、NBAも承認。史上唯一、地域指名制度で「出身地」を理由として指名された選手となりました。そ
して、チェンバレンはハーレム・グローブトロッターズでの契約を経験していたことから、ウォリアーズ側も相当契約金額を積む覚悟をしており、当時のNBAではボブ・クージーの2.7万ドルが最高額だったところ、新人選手のチェンバレンに対して3万ドルの契約を結びました。ちなみに、ウォリアーズのオーナーがウォリアーズを買収した時の金額が、2.5万ドルだったとされており、オーナーがチームを買うよりも高い金額で契約された選手となりました。
ルーキーシーズンからの爆発
NBA入りしたチェンバレンは、ルーキーシーズンである1959-60シーズンから大爆発し、デビュー戦で43得点28リバウンドを記録し、史上初めてシーズン平均30得点以上を記録。(37.6得点)リバウンド部門でも、平均27.0を記録し、オールスターにも出場。
ルーキーシーズンにもかかわらず、新人王、シーズンMVP、オールスターMVP、得点王、リバウンド王の個人タイトル5冠を達成。その支配力の凄さを見せつける結果となりました。
伝説のシーズン
ルーキーシーズンから2年連続で得点王とリバウンド王に輝いたチェンバレンは、3シーズン目に突入し、このシーズンが後に伝説とされる多くの記録を打ち立てたシーズンとなりました。
このシーズンは、平均50.4得点、FG試投数3,159本、FG成功数1,597本、FT試投数1,363本、平均出場時間48.5分、1試合100得点という考えられないようなスタッツの記録をすることになりました。シーズン80試合に対し、79試合にフル出場(残る1試合はテクニカルファウル2つで残り8分ほどで退場)し、延長も10回(50分)出場したため、レギュレーションである、1試合48分を超えた平均出場時間を記録しました。
伝説の100得点試合
2021年現在でも伝説とされている100得点試合も、チェンバレンの3年目のシーズンに打ち立てられました
1962年3月2日のニューヨーク・ニックス戦、ニックスはセンターが欠場していため、インサイドが手薄になっており、非常に楽にチェンバレンがプレイできたと伝えられています。(テレビ放送がなかったため)
第3Q終了時点で69得点を記録していたチェンバレンは、キャリアハイを超えることがほぼ確実と見られており、チームメイトもその記録を達成させるためにパスを回してシュートを打たせるという行為に出ました。しかし、ニックスはチェンバレンの記録達成を阻止するためにチェンバレン以外の選手にファウルをするという行為に出ており、それに対しウォリアーズ側も記録達成のための時間を確保するために、わざとファウルをして時計を止めるというとてつもなく汚い試合になったと言われています。
しかし、残り46秒のタイミングでチェンバレンのシュートが決まって、100点達成。この試合はこのまま観客がコートに流れ込んで試合続行不可能となったため、このタイミングで打ち切りになっています。
ちなみにこの日のチェンバレンは、フリースロー32本を獲得し、28本を沈め、FGは63本放って36本を沈めるというスタッツを残しており、フリースローの試投数以外はNBA記録となっています。
優勝への壁とライバル
チェンバレンは、NBAの歴史の中でも伝説的なチームであるビル・ラッセル率いるボストン・セルティックスと同じ時代に活躍したことによって、支配的な能力を有しながらも、キャリアで2度の優勝で終わることになります。
初めて優勝するまでは、ワンマンチームであることをチェンバレン自身が誇りに思っていましたが、コーチからの指摘でチームプレイに徹するようになり、アシストがリーグ3位を記録し始め、得点王のタイトルを逃し始めた頃に優勝を経験することになりました。
1人では優勝できないということを痛感したのと同時に、チェンバレンがなんでもできるプレイヤーであることが顕著に出た傾向でもあります。このころ、メディアではチェンバレンとビル・ラッセルがライバルであり仲が良くないというような報道が出ていましたが、元々は非常に仲が良かった2人でしたが、優勝争いにより、関係がこじれており、関係が修復するまで20年ほど会話がないほどでした。
引退と復帰と突然の死
突然の引退
ウォリアーズから76ersに移籍し、優勝を経験し、そのあと、ロサンゼルス・レイカーズに移籍し、骨折をしながらも大活躍して優勝をもたらした次のシーズン、このシーズンは、FG%が72.7%という信じられない記録を残し、プレーオフでも勝ち上がって、ファイナルを戦いましたが故障者が続出していたレイカーズは4連敗し、王座獲得に失敗。
その1973年のオフシーズンに、NBAではなく、ABAのサンディエゴ・コンキスタドアーズから選手兼コーチで60万ドルの契約を提示されており、チェンバレンはこれに合意。NBAから去ることとなりましたが、レイカーズがまだ契約オプションが残っていると主張して、コンキスタドアーズでプレイすることを妨害。これによって、結局チェンバレンはABAでプレイすることができず、コーチとしての実験は別のコーチが握っていたため、コーチとしてもまともに指揮を取ることもなく、このままチェンバレンは現役生活並びにバスケットボールの活動から引退することになりました。
復帰の噂
チェンバレンは、バスケ界から引退したあと、ボクシングやモータースポーツ、フットボール、バレーボールといったスポーツに取り組み、バレーボールでは実際に協会の役員になりながらも選手としても出場して活躍していました。
しかし、NBAでもまだプレイできるとチェンバレン自身が語っており、45歳と50歳のタイミングでNBAチームからオファーがあったとされていますが、結局このオファーにサインすることはなく、復帰が実現することはありませんでした。
派手な私生活
1991年に出版された自伝では2万人の女性と性的な関係を持ったと記載されており、本当かどうかはわかりませんが、非常に派手な私生活を送っていたと言われています。
契約金額が当時のチームを買収できるほどの金額であったことから、豪邸を構えて、高級車を多数購入し、結婚多数の女性と遊んでおり、試合が終わると家でパーティを開き、翌日は昼まで寝て試合に向かうという生活をしていたとされています。ちなみに、1991年はマジック・ジョンソンがHIVに感染してNBAを引退した時期と重なっており、この派手な性生活は世間からの多くのブーイングをくらうことになりました。
突然の死
チェンバレンは、派手な私生活の影響からか、心臓が悪く、引退後はたびたび治療をしていたとされ、自伝を出版した翌年には、不整脈によって入院も経験していました。
結局この心臓が良くなることはなく、1999年に急速に症状が悪化。1999年10月12日に、自宅での睡眠中に心臓発作を起こして、そのまま息を引き取りました(63歳)。
関係が回復し、親友であったビル・ラッセルが家族の次に死を知らされた存在であったとされていますが、次の時代のNBAを担うルー・アルシンダー(カリーム・アブドゥル・ジャバー)との関係は回復することはなく、生涯を終えたのでした。
最後に
2020年代から考えれば、歴代最も伝説的な選手といえば、マイケル・ジョーダンかもしれませんが、記録上の伝説は、やはり、ウィルトチェンバレンでしょう。
この記事に記載していないようなNBA記録も多数記録しており、
一言でいえば化け物といえます。
時代背景や優勝経験の少なさからあまり「勝つ選手」と言われませんが、
強引にでもチームを勝ちにつなげていた選手でもあり、
ファイナル出場は非常に多いことも事実です。
歴史は塗り替えられていきますが、
チェンバレンが残した記録ではほぼ塗り替えることが不可能な記録もありますので、
今後も語り継がれていく選手であることは間違いありません。
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