バスケットボールやNBAの知識が少しずつついてくると、必ずたどり着く人物の名前。それがジョージ・マイカンです。
戦前生まれの選手ですので、日本人でそのプレイを生でみたことがある人はほとんどいません。
そこで今回は、バスケのルールも変えたバスケットボール界のレジェンドである、ジョージマイカンの素顔をご紹介したいと思います。
ジョージ・マイカンとは?
まず、ジョージ・マイカンの基本情報をみていきましょう。
プロフィール
名 前:ジョージ・ローレンス・マイカン・ジュニア (George Lawrence Mikan Jr)
ニックネーム:Mr.Basketball
身 長:208cm
ポジション :C
生 年 月 日 :1924年6月18日
出 身 地 :アメリカ合衆国イリノイ州
所属チーム :シカゴ・アメリカン・ギアズ(1946–47) ミネアポリス・レイカーズ(1948-1954)
人物としての特徴
飲み屋の長男として長男として生まれたマイカンは、小さな頃から大きな身体を持っており、13歳の時点ですでに身長が180cmを超えていたと言われています。しかし、同級生よりも飛び抜けているその身長は、周囲から笑われる対象であり、マイカン自身は高身長を大きなコンプレックスとして抱えており、常に猫背で歩いていたとされています。また、極度の近眼であり、当時コンタクトレンズはなかったことから、バスケットボールのコーチから、「メガネをかけている人間はバスケットボールはできない」と断言されてしまい、バスケを諦めるなど、そこまで心が強いわけではないというのが人物としての特徴です。
また、聖職者も志している時期があったが、バスケットボールの道を諦めきれずにコーチと練習をしていることがありましたが、聖職者への道を諦めたことを親に言えなかったなど、数々の内気なエピソードが残っています。
選手としての特徴
出身校であるデポール大学のコーチとの出会いから、当時の長身選手の常識であった「ノロい・不器用」というイメージではなく、長身選手であっても器用にプレイすることが可能になっており、当時のバスケットボールの常識を尽く塗り替えるプレイヤーになっていました。
現在のバスケットボールのルールにある、ショットクロックやゴールテンディングなどのルールができる前のプレイヤーであったため、現在のイメージ感とは少し違いますが、センタープレイヤーでありながら、パワーや高さのみを武器にするのではなく、ルールを理解して巧みにプレイする選手であり、オフェンスの能力が開花する前には、圧倒的なディフェンス力を誇っていました。
ジョージ・マイカンが残した成績
では、バスケットボール界の偉人であるジョージ・マイカンが残した功績などをご紹介します。
NBAチャンピオン:5回
オールスター選出:4回
得点王:3回
リバウンド王:1回
オールNBA:6回
バスケットボール殿堂:史上初選出(1959年)
NBAオールタイムチーム:25周年、35周年、50周年
ジョージ・マイカンがバスケットボール選手になった当時はまだNBA自体がなく、NBLやBBA(のちのNBA)というリーグであったこと、当時のバスケットボール選手の給与が低く、あまり裕福な生活ができなかったことなども含め、プロキャリアが長い選手が少なく、マイカン自身も7年程度のキャリアしかありませんでしたので、記録上は少ないように感じますが、逆に言えば7年のキャリアで5回優勝するという怪物の記録を打ち立てたということに他ならないでしょう。
また平均スタッツも23.1点,13.4リバウンドと当時のバスケットボールが平均1チーム70点ほどの試合をしていたことから考えると、支配的な選手であったことが伺えるでしょう。
数々のルールや常識を変えたジョージ・マイカン
ジョージ・マイカンはバスケットボールを始めた学生時代のキャリアから、常にバスケットボールの常識やルールを変えるほどの影響力を誇っており、現在のバスケットボールに最も大きな影響をもたらした人物の1人として挙げることもできる選手です。そこで、マイカンの逸話をいくつかご紹介しましょう。
練習の常識を変える
マイカンドリルの誕生
大学時代の恩師であるレイ・マイヤーは当時28歳の新米コーチでしたが、高身長であり、他のビッグマンよりも器用なことができるように見えたマイカンの才能を見出し、大学に入学してきたその時から、短期集中でシュートの練習をさせ、器用なプレイヤーにするために左右両手でフックシュートを打てるように練習をさせました。
この時にゴール下でフックシュートを打ってはボール拾って逆サイドのゴール下からフックシュートを打つという練習がなされ、これが現在のバスケットボールの練習にも存在しているマイカンドリルというものになります。
バスケのためにバスケ以外の動き
同じく大学時代のコーチであるレイ・マイヤーは、ビッグマンであるにも関わらず、フットワークの俊敏性を兼ね備えた選手にマイカンを育てるために、ボクシングやダンスなどの別のスポーツのフットワークを学ばせました。特にダンス(バレエや社交ダンス)では、200cmを超えるマイカンに、わざと一番小さな女性パートナーをつけて練習させることで、細かなフットワークを磨いたとされています。
ルールを変える
ゴールテンディングの誕生
マイカンが大学1年の時代では、バスケットボールのルールにゴールテンディングの要素は記載されていませんでした。そこでマイカン擁するデポール大は、マイカン以外の選手でゾーンディフェンスを仕掛け、相手選手がシュートを打つと、ゴール下で待ち構えているマイカンがゴールにボールが届く瞬間にブロックするという、現在のバスケットボールでは考えられない戦法を取り、観客を騒然とさせました。
当時はもちろんルール違反ではありませんでしたが、そもそもリングの上にあるボールを触れる人間がいないという前提で作られたルールであったため、2年後(マイカンは大学3年生)にゴールテンディングのルールが設けられ、この戦法は取れなくなりましたが、身長の高さとフットワークの俊敏性を奪えるものではなかったため、その後もマイカンはゴール下の番人として活躍しました。
ペイントエリアの拡大(マイカンルール)
NBAでも圧倒的な支配力を誇っていたジョージマイカンが、活躍しすぎてしまっていたため、ゴール下からのフックシュートやレイアップを得意としていたマイカンをゴールから遠ざけるために、当時のペイントエリア6フィーとから12フィートへと倍の広さに拡大されました。
もちろん、リーグ側はマイカンに対するルールとは言いませんでしたが、マイカンを標的にしたルールであることは明白で、直後のシーズンではマイカン自身過去最低の平均得点となってしまいました。
ショットクロックの誕生
1950-51シーズンのピストンズ対レイカーズ戦で18-19(両チーム合計で37点はNBA史上最低得点)という衝撃的なロースコアの試合が繰り広げられ、ピストンズが1点差で勝利をしました。なぜこれほどまでにロースコアだったのかと言えば、ピストンズ側がレイカーズ側の攻撃回数を極力減らすためであり、なぜそれほどまでにレイカーズに攻撃をさせたくなかったのかと言えば、マイカンに高確率で得点を決められてしまうからでした。
そのためこの試合は、ピストンズがボールを持てば攻撃するのではなく、ただただボールを回して試合時間を潰し、ある程度確実に決められるタイミングでシュートをしていただけであり、自分たちが得点することでレイカーズ(マイカン)にボールが渡ることさえも恐れていたのでした。
ちなみに、この試合でマイカンはチーム18点中15得点を1人で挙げており、チームのFG成功率も83.3%と超高確率でシュートを決めていました(1試合のチームFG%では歴代最高)。それまでショットクロックがなかったために、マイカン自身も確実に得点を取れるまでボールを保持し、肘や肩でコースを作ってフックシュートやレイアップを試みるオフェンス方法を使っていたためこれほどまでに高確率でシュートを決めることができたのでした。この試合の観客は面白くない試合を見たことで抗議し、ショットクロックが導入されるきっかけとなりました。
引退後と晩年
ジョージ・マイカンはバスケットボール選手としてのキャリアはそれほど長くなかったものの、選手引退後も精力的にバスケに関与しており、様々な功績を挙げていたためご紹介します。
スリーポイントの本格導入
役員としてABAのコミッショナーとなっていたマイカンは当時すでに議論に挙がっていたスリーポイントのルールを本格導入することを決めました。自身はセンタープレイヤーでありましたが、身長の低い選手の活躍の場を広げることで、バスケットボールがさらに広まることを狙っていたとされています。
カラーボール
ABAのコミッショナー時代に、公式ボールとして赤・青・白のマルチカラーボールを採用しました。現在のバスケットボールの公式戦ではあまり使用されていませんが、NBAのスリーポイントコンテストのマネーボールとして使用されているあのボールは、ジョージマイカンが採用したものです。
当時はテレビが普及していた頃であり、「テレビ映え」を狙っていたこともあり、
よりカラフルなもので観客を引きつけようとしていたとされています。
このカラーボールはABAの象徴としてオールドファンから愛され、今でも文化として残っています。
ミネソタ・ティンバーウルブズ誕生
マイカンが現役時代のほとんどを過ごしたミネアポリス・レイカーズはロサンゼルスに拠点を移すことになり、ミネソタ州からバスケットボールチームがなくなってしまうことになったため、マイカンはミネソタ州にバスケットボールチームを誘致する活動を精力的に行い、ミネソタ・ティンバーウルブズが誕生しました。
怪我と病気と権利
ジョージマイカンの引退の理由は、「家族と一緒にいる時間を」「他の道に進むタイミングがきた」と発表していましたが、度重なる故障も確実にその1つでした。特に足の故障は酷く、学生時代合わせて足の骨折だけで10箇所、縫った箇所だけで16箇所もあり、ショットクロック導入が決定的になったことと重なり、引退をしました。
引退後は、学生時代に志していた法律家の道に進み、亡くなる間際までバスケットボール選手の権利拡大の活動を繰り広げます。晩年は糖尿病に苦しみ、過去のスポーツ選手の給与水準が低く、医療費や年金制度が不十分であることを理由に権利拡大や提訴等を繰り広げていましたが、現役時代に支えてくれた足を切断するなど、相当病状が思わしくなく、2005年に亡くなりました。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
バスケットボールは、巨人のスポーツとも呼ばれるスポーツですが、その歴史の多くは、強力なビッグマンの力をどう抑えるのかという繰り返しです。
その中でもジョージマイカンはバスケットボールの初期に突然現れたビッグマンであり、現在のバスケに大きな影響を与えたことは記事をお読みいただければおわかりいただけたかと思います。
50年以上も前にプレイしていた選手の名残が今も残っていると言えるほどの支配力を有して活躍したマイカンの影響力の凄さを現在のバスケットボールでも感じることができるのではないでしょうか。
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