ラリーバード:伝説として現役生活を送ったセルティックスの代表選手

バードNBA
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NBAの歴史、バスケットボールの歴史の中でも一際目立つ存在の選手というのが存在します。

今回はその中から、ボストン・セルティックスでプロ選手生活を送り、現役時代から「伝説」と呼ばれていたラリーバードについてご紹介します。

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ラリーバードとは?

ラリーバード

まず、ラリーバードのプロフィールなどを見ていきましょう。

プロフィール

本    名:ラリー・ジョー・バード(Larry Joe Bird)
ニックネーム:Legend、Kodak
身    長:206cm
ポジション :SF/PF
生年月日  :1956年12月7日
出 身 地 :アメリカ合衆国インディアナ州
所属チーム :ボストン・セルティックス(1978-1992)

人物としての特徴

幼少期から波瀾万丈な人生を送っており、現役時代は特に過激・強気と取れる発言などをすることが多々あり、問題視されることもありました。後述しますが、選手としての実力は圧倒的なものがあり、実力で押さえつけるような生き様を見せていました。

6人兄弟で育ち、人種問題がまだ若干残っている時代に幼少期からストリートで黒人とバスケをすることで、実力をつけていきました。高校の頃には大学からスカウトが来るほどの選手になっており、そのままインディアナ大学に進学しますが、馴染めずにすぐに退学。地元に戻り、清掃員として働き短大に通っていました。この頃にすでに離婚していた父親が自殺していたことを知らされています。また、この短大の時期にバード自身も一度結婚をし、そして離婚もしています。

選手としての特徴

ラリーバードは、恵まれた身長と体格を誇っており、大学時代から世間的にライバルとされたマジック・ジョンソンと同じような体格でした。しかし、身体能力は当時言われていた「飛べない白人」のイメージに近い部分があり、身体能力はNBAの中では低い方で、206cmの身長がありながら垂直跳びではダンクがほぼできませんでした。

ただし、バードは身体能力に頼るのではなく、歴代でも屈指のバスケIQと歴代最高のシューターの1人と言われるほどのシュートセンスによって、試合を支配していました。

肩から担ぎ上げるような独特のフォームのシュートはNBA入りの段階から高確率でありましたが、キャリア初期はドリブルが非常に危なっかしく、ほとんど右手でしかつくことができませんでした。また、ディフェンスが緩いという評価を受けることもありましたが、異常なほどの闘争心でこれらの課題を克服しており、シューターとしての一面が強烈であるため、あまり語られませんが、キャリア平均で10リバウンド、6アシストを残しているオールラウンダーであり、SF/PFが本職ではありましたが、キャリアの途中からチームでは実質的なポイントガード役をこなしていました。

また、怪我を恐れずにボールに飛び込む部分が評価され、オールディフェンシブチームにも選出されています。

ラリーバードが残した成績

ラリーバードが残した経歴は下記の通りです。

受賞歴等

NBAチャンピオン:3回(1981,1984,196)
シーズンMVP:3回(1984-86)
ファイナルMVP:2回(1984,1986)
新人王:1回(1980)
オールスターゲーム出場:12回(1980-1987,1989-1992)
オールスターゲームMVP:1回(1982)
スリーポイントコンテスト優勝:3回(1986-1988)
オールNBA:1stチーム:9回(1980-1988) 2ndチーム:1回(1990)
オールNBAディフェンシブ:2ndチーム:3回(1982-84)
オリンピック金メダル:1回(1992)
ネイスミス賞:1979
ジョン・ウッデン賞:1979
永久欠番:ボストンセルティックス(33番)
バスケットボール殿堂:1998
NBA50周年記念オールタイムチーム:1996
NBA最優秀コーチ:1998
NBAオールスターゲームヘッドコーチ:1998
NBA最優秀役員:2012

プロキャリア通算成績

得点:21,791 (平均24.3p)
アシスト:5,695 (平均6.3a)
リバウンド:8,974 (平均10.0r)

受賞歴からも分かるとおり、バードは引退後ヘッドコーチとしてNBAに復帰しており、コーチになった最初の頃から3年でコーチは辞めると伝えていたために、3年のみのコーチキャリアとなりました。

コーチを務めたインディアナ・ペイサーズはバードがコーチを務める前のシーズンまでは負け越していましたが、バードがコーチになった3シーズンで、カンファレンス・ファイナル敗退が2度、NBAファイナル敗退が1度とコーチとしても素晴らしい成績を残したのでした。現在では同チームのコンサルタント役として活動しています。

ラリーバードに関するとんでもない実話

ここからは、スーパースターであり、負けん気のめちゃくちゃ強いバードならではの逸話・実話をご紹介します。

Twitterのロゴになった

アメリカのIT企業であるTwitter。

同社のロゴアイコンといえば、青い鳥ですが、あの鳥は「Twitterバード」と呼ばれており、最初はそのまま「ラリー・バード」と呼ばれていたようです。Twitterができたばかりの時代にいた社員にラリーバードのファンの社員がいたことから名付けられたようです。

懲役を伸ばしたファン

2005年に、強盗と殺人未遂によってとある男が逮捕され、裁判を受けたところ懲役30年の判決を言い渡されました。この男は刑の軽減を求めるのではなく、3年間の懲役プラスを申し出たのです。

この男、ラリー・バードの大ファンで、懲役を30年にプラス3年し、バードの背番号と同じにしたかったのだとか。自分から刑期を伸ばすというあり得ない申し出は認められ、希望通り懲役33年で刑が確定しました。

ベンチに座れなかった

バードは晩年、背中の痛みと戦っており、この原因は先天な骨の異常によるもので、段々と痛みが増していました。

プロになってから痛み始めたのですが、キャリア晩年はベンチに下がるとベンチに座ることも立っていることもできないほど痛みの痛みがあり、ベンチ横のフロアにタオルなどを敷いて寝転がり、トレーナーからマッサージを受けていました。

これはドリームチームのメンバーとして参加したバルセロナオリンピックでも同様で、要所要所で試合に出て活躍する以外には、ほとんどベンチに座ることなくフロアに寝て過ごしました。

シュートタッチは常に違和感

高校大学と名選手の道を着実に歩んでいたバードですが、大学生の時に遊びでソフトボールをしている際にゴロをキャッチし損ね、利き手である右手を骨折するという事故を起こしています。

医者曰く、「トンカチで砕いたよう」な状況であったとのことで、バードのプレイ・シュートタッチにも影響を及ぼしていたと本人が後のインタビューで語っています。

この怪我によってシュートタッチが元に戻ることは結局最後までなく、NBA史上最高のシューターの1人と呼ばれるバードは、実は「ずっとシュートタッチにしっくりきていなかった」とされています。

バード強気伝説

左手だけで20点

利き手の逆手である左手のシュートも上手かったバードですが、この左手のテクニックはNBAに入ってから磨いたものだと言われています。

しかし、1986年のポートランド戦でチームメイトに対して、「最低でも3クォーターまで左手でシュートを放つ」と宣言しており、左手のシュートで20得点をとっています。ちなみにこの試合でのバードの総得点は47得点です。

誰が準優勝するのかを考えていた

バードの強気発言で最も有名なのは、「誰が準優勝するのかを考えていた」でしょう。

これは、「左手だけでシュートする」発言と同年のオールスターのスリーポイントコンテストの控え室において、出場選手を見ての発言であり、その発言通り見事優勝を果たします。しかし、この伝説はこれに止まらず、翌年の1987年には「お前らは準優勝するためにここに来たんだと願ってる。優勝するのは俺だから」と言い、2年連続で優勝。そして、1988年には、「今年は特に言う必要がない。みんなは誰が優勝するか知ってるからね」と言い放ち、3年連続で優勝を勝ち取って見せました。このエピソードからも、自信家かつ負けず嫌いな度合いが相当なものだということがわかるでしょう。

サラリーキャップルールに特例をつけた

バードが現役中の1984年にNBAではチームの選手の年俸総額の上限を決める、いわゆるサラリーキャップ制度が導入されました。

この頃のNBAのチーム経営は選手への給与(年俸)の支払いが多額になりすぎて経営不振に陥っているチームが少なくなかったために、公平性や安定性を求めてのルール導入でした。

しかし、バード vs マジックなど、この頃からスター選手にスポットライトを集めて集客するという方法がNBAのプロモーションになっており、各チームのスター選手は非常に貴重で価値のある存在でした。

そんな背景の中、ある一定期間以上在籍した選手に対しては、サラリーキャップを超える年俸を支払っても良いという例外条項を認めさせました。このルールは「ラリー・バードルール」として知られています。

まとめ

ラリーバードは、時代背景的にも非常に盛り上がりを見せるタイミングでNBAに入ってきており、
ほぼ同じ体格を有しながらも、黒人・白人、陽気・冷静という対照的なライバル(と世間的に言われている)であるマジックジョンソンの影響もあって、熱狂的なファンを生み出し、実力も伴ってスーパースターとなりました。

彼が残した成績は非常に偉大なものであり、今後もボストン・セルティックスの代表選手の一人として
名前が残り続けるでしょう。

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